
-架空と妄想が入り混じったみちのくの初夏を表現-
宮城野電鉄略史
宮城野電鉄の発足
宮城野電鉄は宮城県内の有力者が出資し、発足した鉄道会社です。県内の中心都市「仙臺市」と日本三景「奥島」をつなぐ路線として大正14(1925)年に開業しました。
開業当初から観光路線として力を入れたのみならず、路線延長にも意欲的で、昭和3(1928)年には石巻市まで開通しています。
始発駅である仙臺駅は我が国初の地下駅であるだけではなく、昭和13(1938)年に宮城県庁まで地下路線を開通させています。
しかし、昭和16(1941)年に勃発した太平洋戦争は大きな影響を及ぼし、昭和19(1944)年に入り一度国有化されるのです。
昭和20(1945)年7月の空襲では市街地の駅西側だけではなく、練兵場など、複数の軍事施設があった東口も甚大な被害を被りました。
最民営化・路線の拡充を目指して
戦後、関係者の努力あって最民営化し、復興に際し人口が急速に増加していた仙臺市と周辺市町村は新たな公共交通網の整備に迫られました。仙臺市電だけでは輸送力の限界に達することを想定した仙臺市は日本国有鉄道・宮城野電鉄・建設省・運輸省などと「仙台都市圏公共交通整備協議会」を立ち上げ、鉄道網の整備について覚書を交わします。既に宮城県庁前まで路線を伸ばしていた宮城野電鉄はさらに路線を延長し、国鉄北仙台駅まで地下路線を開通させることを目標としたのです。また、空襲で大きな被害を受けた東口と戦前からの繁華街である西口を一体化し、大規模都心化とする市の東口再開発事業と歩調を合わせるべく、こちらもまた地下化を進捗することにしたのです。
新たな路線拡充の必要性
ところが人口増加と市街地の拡大は市の予想を上回るペースで進みます。
電鉄も不動産事業に着手し、仙臺市北部に大規模住宅地を開発した結果、朝夕の通勤ラッシュは深刻な状況に至ったのです。
そこで市と電鉄はさらなる計画を策定します。すなわち、北仙台駅までだった路線をさらに北進し、冠市(現冠区)まで路線を延長し、将来的には仙台鉄道と相互直通を行う、仙臺市電の路線のうち、永町までの路線を譲渡してもらい、地下路線として新規に建設し、秋保電鉄と相互直通を行う、といったものでした。
当時の冠市は電鉄が手がけた団地だけではなく、県住宅供給公社や民間デベロッパーが開発した大規模住宅団地が次々とでき、全国有数の人口増加率を誇っていました。また、秋保電鉄沿線にも同様の傾向が見られ、市としても新たな公共交通政策は喫緊の課題だったのです。
これら路線が開通するにつれ、仙臺都市圏はさらなる発展を見せるようになっていきます。
サービスの多角化
戦前期から観光事業に積極的だった電鉄は戦後まもない時期から新たな事業に乗り出します。
先述したような団地開発などの不動産事業をはじめ、百貨店・スーパーマーケットの小売業、プロ野球チームの経営(地元紙・『東北新報社』などと共同出資した運営会社を設立)など、一大グループとして多角化をしていきます。
仙臺都市圏の拡大に合わせるかのように電鉄もまた地域経済の担い手としての重要性を増していったのです。
都市間路線への変貌
平成に入り、都市圏内を担ってきた路線の性格に変化が生じてきます。
すなわち、仙臺都市圏の求心力がより一層増し、県内だけではなく隣県にまで及ぶようになったのです。鉄道だけではなく、高速道路網の整備の進捗とそれに伴う高速バスネットワークの充実が交流人口の増加に拍車をかけました。また、昭和終期に国鉄が分割民営化され発足したJRみちのくは、仙台近郊の路線の利便性を向上させ、電鉄と激しい競争を繰り広げていました。
従来の路線網の複線化・高速化が一段落した電鉄は、こうした状況を踏まえ新たな路線網構築を迫られるようになったのです。
まず競合相手のJRや高速バスに対抗すべく、相互乗り入れ先の「仙台鉄道」・「秋保電鉄」と経営統合し、路盤改良工事などに取り組み、所要時間の短縮につなげました。また、那取市にある「仙臺空港」に乗り入れ、空港と都心部を結ぶ路線として乗客数の増加に寄与したのです。さらに限界に達していた地下仙台駅を大規模改修し、系列の「みやでん百貨店」の増床と合わせ、再開発事業を行ったのです。
最大の事業は「あぶくま鉄道」の買収及び路線接続でしょう。
これにより那取市・岩隈市の団地群の乗客を誘引できたのみならず、県南の中心都市・賀来田市、そしてさらには福島県福島市と直接結ばれることになり、都市圏と同規模の長大なネットワークを有するに至ったのです。
JRみちのくや高速バスと激しい競争を繰り広げながらも、東は石巻市、北は大崎市、そして南は福島市を結ぶ鉄道ネットワークは大手私鉄の一つに相応しいサービスを提供しております。